目指せたちぱー作家への道のり

たちぱーがラノベ作家を目指します

ミルクと砂糖はいかがですか

 「ミルクと砂糖はいかがしますか。それときょうもいつも通りですか?」
「ああ、閉店までいさせてもらうよ。それで今日のコーヒーは、とにかく澄んだものが飲みたいんだ。よろしく頼むよ。今日はそういうものを書くつもりだからね。」
 そういって私はいつもの席に腰を下ろした。物書きというのは決まった仕事場を持たない人種が大勢であるが、私を含む大抵の人間は思想に耽るに適した場所を持っている。それは、自宅であり、公園であり、舞台となるその地であったりするが、私にとってのそれは、このカフェなのである。私がこのカフェに訪れるきっかけになったのは下積み時代に週刊誌で歌舞伎町での汚れた下仕事を依頼された時である。雑多なこの新宿の街の中で落ち着ける場所など無いはずなのに、雑居ビルの入口に置いてあった淡い木目町の少し亀裂の入った看板と、半地下に構えられた店のこの街にそぐわない雰囲気の中に私好みの落ち着きを見つけ出した気がして、足を踏み入れたのだった。そこに感じた雰囲気は、水の中で燃えるマグマのように一見矛盾に見える美を含んでいた。しかし、店を訪れた理由と私がこの店を気に入った理由は決して同じであるとは言えない。私はマスターの作るコーヒーに惹かれたのである。この店で、コーヒーを注文するには一つの絶対のルールが存在している。それは、ブラックを頼まないということだ。マスターのコーヒーが特別であるのは、昔ながらのネル式で香り高く注がれたコーヒーそのものではなく、ミルクと砂糖を巧みに調節することで、客の心の淀み具合に合わせたものが作られるという事だ。もちろん、先程の私のように注文時に細かく頼んでもいいのだが、マスターは優秀であるからオススメと言えば、その日の自分にぴったりとあったものを出してくれる。彼がミルクと砂糖を用いて繊細にコーヒーを作る姿は、巧みに和音を用いて一つ一つの音からは考えらないような音楽を作り出す作曲家に重なる。
 カランカラン、ドアに掛けてある鐘が揺れた。またこの茶色と黒色が混ざりあって作り出す洞窟に誰かが足を踏み入れたようだった。新宿にある奇妙なこの店に足を踏み入れる人間はそれがどういったベクトルに向いていたとしても私の目には魅力的に写った。それも私がここに来て筆をとる理由なのかも知れない。鐘の音に続いて聞こえてきたのは、店のレコードから流れる弱々しく繊細なショパンの音色にそぐわない、若者二人組みの声だった。
「こんなところに、こんなオシャレな感じのカフェがあったんだな。お前こんなとこどうやって知ったんだよ。」
「でしょこのカフェすごくいい所でしょ?私のお気に入りなんだ。」
 そこでマスターがいつも通り注文を聞いた。
「いらっしゃいませ、ミルクと砂糖はいかがしますか?」
「あ、俺はブラックでお願いします。お前はどうする?」
「ダメだよ、それじゃあ。マスターすみません、この人初めてで。二人ともおまかせでお願いします。こっちの彼は甘いのが苦手なので苦めでお願いします。」
 マスターが、ノクターンの休符を一拍待ってから返事をした。
「大丈夫ですよ、お嬢さん。かしこまりました。ではお好きなお席の方に座ってください。」
 二人組みは、カウンターの私がいる席とは反対側に、腰をかけた。この時、私は彼女の顔を見てどこか既視感を覚えた。それは、昔の友人の友人に再開した時に感じるような朧げで、曖昧な感覚ではあったが、私の記憶力は確信を持って訴えていた。しかし、なんのヒントもなしに人物に関する曖昧な記憶を掘り起こす行為ほど難しいものはなく、確信的な正解に辿り着くことは出来そうになかった。
 青年が、非常に不機嫌そうな声を出した。
「なんだよブラックはダメって。どうしたんだよお前、最近なんか変だぞ。今日だって急に話がしたいからってこんな変な店に連れてきたり、お前のことが最近分からないよ。」
「ごめんね、自分でもいつも通りじゃないってわかってるんだ。でも、大事な話をしなきゃって思って、そうしたらこの店しかないんだって思ったんだ。君は初めて来たから分からないかも知れないけど、ここのコーヒーなら私たちをいい方向に導いてくれるって思ったの」
 彼女の正体自体は未だ分からないが、この店を利用していたということは確かだ。そこで、この店で出会ったのかという予想が私の脳内をよぎった。しかし、少ない情報で判断することほど危険なことはない。脳内のパズルを完成させるためにもう少し記憶の欠片が必要だと思い、失礼ながらこぼれた言葉を拾わせて貰うことにしたのだが、若い男女は大きな岐路に立っているようだ。人生の中でもっとも価値観の大きな変容があるのは出会いと別れである。そんなふぁんたじーを目の前にして、私の心の筆は一語一句逃すまいと全てを書き記し始めた。いつの間にか、小説の題材は店に来た時に構想されていたものから二人の物語にすり替わっていた。
「あのね、私たちもう随分長い間一緒にいるでしょ。もう結婚へのカウントダウンが始まってると思うんだ。それが零になる前に私達はカウントを一度止めて立ち止まる必要があると思ったんだ。」
 演奏を終えたレコードの針が音の入っていない円盤を削る音だけが響いた。間がつくり出した美しさに圧倒され私が息を呑んだ時、彼女がまた言葉を吐いた。
「私ね君に言ってなかったことがあるんだ。五年前くらいね、私はさ歌舞伎町でそういう仕事をしてたんだ。今は普通の会社で働いてるけど当時はお金と見栄に溺れていたの。そんな汚い女なんだよ、このことを君に隠したままじゃいけないって思ったんだ。」
 この時私の頭の中でバラバラになっていた欠片達が一つの正解を導き出した。彼女は私の本が売れ、汚れ仕事から抜け出す直前、最後に行った汚れ仕事の取材相手だったのだ。彼女は酷く罪にとらわれて僕に接していたことが頭に残っていた原因であったことにも気づいた。私が既視感との戦いに決着をつけている間に、二人の間に生まれた溝は深まっているように見えた。青年は彼女から発せられた言葉をどうやって消化すれば良いのか分からず戸惑っていた。
「そんな、じゃあ君は僕にずっと嘘を着いていたんだね。自分が汚い売女だってことを隠してたんだ。」
青年は若さゆえの過ちだろう。動揺を整理しないまま、切っ先の尖った言葉を吐いてしまった。先程の美しい沈黙とは違って重苦しいく行き場を失った静けさが、二人の間から広がりカフェ全体を包こもうとした時、ソーサーが机とぶつかる音が響いた。彼女が望みとして残しておいた『救い』が正確な時刻に到着したのだ。
「お待たせしました。コーヒーになります。こちらはお兄さん用に甘さ控えめで作らせて頂きました。」
 二人はいつもの距離感を取り戻したかのように無言で、タイミングまでも同時にカップを手に取った。彼らのために注がれたコーヒーは、私のものとは大きく違って強い香りが漂い大切な何かを訴えているようだった。マスターからの囁かなメッセージを受け取った二人は再び顔を向かい合わせて、解けてしまった糸を一本ずつ丁寧に結び直す作業を始めた。
「動揺していたっていうことは君への言い訳にならないかもしれないけど、それでも気がおかしくなっていたみたいなんだ、君を傷つけてしまった。ごめん。」
 コーヒーが青年を変えたのかは分からない。彼から漂ってくる雰囲気は若者特有の不安定さからは、かけ離れた熟年の英国紳士から漂ってくるそれに近しいものになっていた。一方で彼女から出ている、自分を卑下したような悲しい雰囲気を、コーヒーが打ち消すことは出来なかった。僕が今見ている景色はつまらないちんけな男女の物語かもしれないが、私はそこに哲学があることをひしひしと感じていた。
「謝られても、私はどうすればいいか分からないよ、私の目に写ってるのは私に失望した君の目だよ。」
 違う結論を出すのを早まってはいけない、そう口から言葉が飛び出しそうになった。どう見ても私から見えた青年の目は彼女への慈愛で満ち溢れていた。彼女の歪んでしまった心が見える景色まで歪めているのだ。このままでは青年の愛は彼女に届かないまま散ってしまうと思うとすごく不安でおかしくなりそうな気がした。
 私も気づけばそこにあったコーヒーを口にしていた。口の中で感じたコーヒーはリクエストした澄んだ味ではなく、淀みと雑味が混じった味がした。その時、私は大事なことが頭から抜け落ちていることに気づいた。他人の不幸を無責任に嘆くのだとしたら、私という存在は常に贖罪の概念に囚われてしまう。私がこのカフェでいつも小説を書くのは私を書き表すためではなくて、私の周りに満ち溢れている運命と偶然を書き記すためなのだ。私は使命を果たす意味と使命のための義務を再認識して、もう一度筆を手に取った。
「僕はね、君が行った仕事を卑しいとは言いきれないんだ。僕が君に話したいのは『職業の貴賎』とかそういう話ではないんだよ。だってそれを含めた君が僕にとっての君なんだ。たとえそれが目に見えないところから見えるところに出てきていたとしても。」
「あなたが許してくれても、私が許せないんだよ。たまに、自分の体が汚く見えて仕方ないんだよ。そんなまま君と同じ幸せを見ることが出来ないの。」
 紳士な彼の中に静かな怒りが生まれ、ランプの照明の炎が小さく揺れた。
「ふざけないでくれ、僕は君と夕日を見たあの日から同じ太陽を見る覚悟を決めてるんだ。君の身勝手な在り方なんて、関係ないんだよ。」
 彼の言葉はまっすぐではなかった。吐き出された言葉は彼女の中にすぐには収まらずに空気の中にただよった。直線的でない言葉というのは、時に鋭利な言葉よりもゆっくり、そして深く意味を持つ。それは相手に解釈と自分の都合のいいように書き換えることの出来る許容の余地を与えるからだ。彼の狙い通り漂っていた言葉は、彼女の中に彼女が望んでいた形で収まった。
 「私が汚れているかどうかではないとあなたは言いたいのかしら」
「そう、君の言う通りだ」
「私がどうあるか、どうありたいか。」 
「そう、君の中の君を正しく保つんだ。」
「それがあなたと私が考える二人が上手くやっていく方法」
 二人は物事の確かな核に触れ、神からの啓示をたしかめるように次々と口に出したあと、一度口を閉ざした。目と目は直線的に交わっていて、私とマスターにはわかることの無い記号を伴わない暗号の中で会話が続いていた。二人の仲で完全な合意がなされたタイミングでもう一度コーヒーカップを同時に手に取り残ったコーヒーを飲み干した。男女の彼らは生まれた確かな合意をか決して逃すまいと急いで会計をすませて席を立った。
「マスター特別なコーヒーをありがとう。ここならミルクも砂糖も悪くもないのかもしれないと思ったよ」
 去り際の彼のセリフに私は深く同意の念を抱いた。世の中マスターのミルクと砂糖があるだけで何かを失わなわずに済むのだ。葛藤にまみれた世の中だから、今日もまた鐘の音と同時にマスターの声が響くのだろう。
「ミルクと砂糖はいかがですか」

p.s.こちらの小説は以下のサイトにも掲載しています。

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